C・イーストウッドの俳優引退作「グラン・トリノ」がしのばす“晩節の美学”とは?

2009年04月23日10時19分映画

「どうやってあんな傑作を生み出すのかわからない」、こんな最上級の賞賛をNYタイムスが送った映画「グラン・トリノ」にて、クリント・イーストウッドは俳優引退を宣言している。

クリント・イーストウッドの印象は、最近の若い世代にとっては監督としての印象の方が強いのかもしれない。第65回アカデミー賞監督賞、作品賞を受賞した「許されざる者」、そして二度目のオスカー栄冠となった「ミリオンダラーベイビー」では、第77回アカデミー賞・作品賞を受賞。どちらの作品にもイーストウッドは出演しているが、両作品ともあまりにもすばらしいできばえが故、つい制作者としての、つまり監督としてのイーストウッドを褒めそやす祝福の声が高くなりがちだ。もちろんそれ自体は大変な栄誉であることに間違いないが、やはり少々一面的なきらいがある。食の世界に例えれば、彼は偉大なレシピを考えられる創造的なシェフであると同時に、料理においては自らの腕も立つ、つまり厨房(現場)主義の偉大なシェフと例えられる。だから、心より映画を愛する者がイーストウッドを語るとき、俳優としての偉大さについても、触れないわけにはいかない。

「荒野の用心棒」そして「ダーティーハリー」。彼が主演した映画の中の主人公に、単純なヒーローはひとりもいなかった。それぞれ個人的な葛藤を抱え、自分だけのルールと社会一般とは少し違う独自の正義感があり、優しさはあるがシャイで、とにかくそんなキャラクターをイーストウッドが演じると、あまりにも人間的な魅力を放つのだった。80年代前後は特に、アメリカ映画にはマッチョなヒーローが多く出現していたので、クリント・イーストウッドの存在は異彩を放っていた。まさに孤高の俳優だ。監督兼出演作としてケビン・コスナー主演の「パーフェクトワールド」も素晴らしい名作に数え上げられるが、俳優としてのイーストウッドが放つ「乾いた無常感」なしには名作になり得なかったかもしれない。

そんなイーストウッドが本作「グラン・トリノ」で演じるのは、これ以上ないくらい偏屈で頑固な片田舎の老人だ。主人公であるウォルト・コワルスキーの性格は気難しいことこの上なく、妻の葬儀の席でも出席者を「ネズミども」とよばうばかりか、人種への偏見も強い困った男だ。自動車工を勤め上げたウォルトの楽しみと言えば、自らレストアした愛車グラン・トリノを眺めることくらいで、ある日の夜、少年がクルマを盗みに入ると、容赦なくライフルの銃口を少年へ差し向ける。

しかし、その少年は自らの意志でクルマを盗もうとしたわけではなかった。少年の名は、タオ。アジア系移民、モン族というマイノリティー(少数民族)の出だ。タオはウォルトの隣家に住んでおり、お詫びとして家の手伝いをすると申し出る。かくして人生のしめくくり方を知らない老人と、人生の始め方を知らない少年の不思議な交流が始まっていく。かたくなに閉ざされていたウォルトの心は、タオたち一家の温かみに触れていくにつけ、変化を果たしていく。人生の最後に、ひとりの少年を一人前にすることを選んだウォルトの姿が、観る者の心をしずかに打つ。感動的なヒューマンドラマだ。

「もう積極的に役を探すことはないだろう」と、本作で俳優引退宣言をしたクリント・イーストウッドの俳優キャリア終了を惜しむ人は多い。アメリカ映画の神髄に全身で関わってきた、数少ない賞賛されるべき人物である彼の今後の監督作品には期待を寄せつつも、俳優としての「有終の美」として、その引き際の選び方を受け止めるべきなのかもしれない。

「何歳になっても学べるのさ」。本作出演を振り返って、そんな言葉を語ったクリント・イーストウッド。そこに彼ならではの「晩節の美学」を見るのは往年のイーストウッドファンだけではあるまい。

現在、映画「グラン・トリノ」オフィシャルサイトでは、本作の予告編映像を公開中のほか、映画制作の裏側を明かす29ページものプロダクション・ノートのダウンロードも展開中(PDFファイル)。映画「グラン・トリノ」は、4月25日(土)より丸の内ピカデリー3、TOHOシネマズ六本木ヒルズほか全国ロードショーとなる。

映画「グラン・トリノ」オフィシャルサイト