笑顔に隠された改名秘話!Jun. K(2PM) 酔中トークで本音を語る!MV公開中

2016年02月06日16時30分芸能

日本ではJun. K(from 2PM)として2度のソロコンサートを成功裏に収め、先日2月1日には東京国際フォーラムで行われた「THE STAR K-POP SPECIAL LIVE 2016」にも出演するなど、日本でもソロアーティストとしての地位を確立した2PMのJun.Kが先日、韓国メディアのインタビューでその胸中を熱く語った!Jun.Kの最新MV「Love Letter」「EVEREST」のMVショートver.は2PM公式サイトで公開されている。

「Jun.Kには名前が3つある」との書き出しから始まる韓国日刊スポーツの「酔中トーク」中で、今まで詳しく語ることのなかった改名秘話、両親のこと、音楽について、練習生時代のエピソード、恋愛、2PMの今後など、お酒を飲みながら真剣にインタビューに答えた。

①“山羊の華”の屈辱を「覆面歌王」で挽回したかった。”
②“改名したくなかった。でも父の遺言なのに…”
③“JYP、60代まで活動するという言葉に、ただため息”

の3つのパートに別れる記事の内容を以下、要約してご紹介。

記者:2PMのメンバーと最近はどんな話を?
Jun.K:もちろん、2PMの将来について。去年JYP(2PMの所属事務所)と再契約したが、僕とテギョンは来年軍隊に行く。でも僕達6人はバラバラになることはないと確信した。そして話をしながら、あんなに子供だったジュノでさえ、大人になったと感じて驚いた。

記者:最近放送されたMBCの“覆面歌王”で準決勝まで行きましたが、結果には満足?
Jun.K:オファーをもらったのが収録5日前で十分に練習する時間がなく、しかも選曲にかなりの制約があった。準備期間がなく本当に歌いたかった歌を歌えなかったのが後悔。でも3回戦まで行くとは思っていなかったので結果としては上出来だと思う。

記者:本当に歌いたかった曲は?
Jun.K:“雪の華”です。日本で初めて公演した時に“雪の華”を歌ったが、見事に音を外して、下手すぎると話題になった。“雪の華”じゃなくて“山羊の華”だとからかわれたりもした。実は喉の管理を怠ったせいで、声帯結束になっていたが、そのことが今でも忘れられず、挽回したかった

記者:ご両親はどんな方だった?
Jun.K:父は経済紙の記者で厳格な人だった。母は優しくて僕を理解してくれる人。家も裕福ではなかったから塾に通ったりする余裕はなかったので、音楽がやりたいと思った時も言い出せなかった。 大邱の音楽祭で優勝した時に、母は僕の才能に気づいていてくれたが、相変わらず父は反対していた。最後はのど自慢の番組で優勝した時にもらった29インチの薄型テレビのおかげで塾(音楽の)に通わせてもらうことがOKになった。9ヶ月くらい通ったところでJYPとYGにデモテープを送った。YGから先に連絡が来たが、結局はJYPに入った。

記者:JYPの練習生になった後は?
Jun.K:僕はダンスが全然出来なかったので、基本から習った。本当に怖かったダンスの先生にチニョン兄さん(パク・チニョン)が僕を3ヶ月位内にピ(Rain)くらい踊れるようにしろと注文をつけた。現場が凍りついた。

記者:練習生生活で一番つらかったことは?
Jun.K:誤解されて会社を追い出されたことがあった。毎朝9時にタイムカードを押してから練習するが、一度遅れそうになって友達に代理でタイムカードを押してもらった。それがバレたのをキッカケに誤解が生じて、大邱に帰れと言われた。その後は友達の寮などで生活しながら、生活費を稼ぐために、新聞配達や土木作業もやった。デビューが6回もダメになった時もつらかった。

記者:ソウルでの生活は金銭的に大変だった?
Jun.K:2011年からお金を稼げるようになったが、我が家はカビが生えるほどひどく、5回の大手術をするくらい母の具合も悪かった。2012年1月に父と会って引っ越しの話をしたが、その1週間後に父が心臓麻痺で突然亡くなった。その時僕は弟と旅行中だったが、あまりにもショックで呆然とした。

記者:改名の話はどうやって出たの?
Jun.K:父が亡くなって1ヶ月後に父が僕の名前をミンジュンに改名することを望んでいたと母から聞いた。すでにジュンスという名前が知られていたし、名前を変えてもいいことはないと思ったから10ヶ月位抵抗した。でも母がまた別の病気で入院し、手術することになり、過去の5回の大手術もあり、もしかすると麻酔から目覚めないかもしれないと医者に言われた。そんな状況の中、母が僕にまた改名の話を切り出すので、仕方なく事務所に相談し、ミンジュンに改名した。もともと作曲家名はJun.Kだったので、活動名もJun.Kとしてやることになったが、反応は悪かった。日本で自作のソロアルバムを出して、オリコン1位になったことが韓国で報道されたのにJun.Kが僕だと気づかれなかった。本当にストレスだった。

記者:Jun.Kにとって父親とは?
Jun.K:父とは対立していた。中学校の時、父が勉強している僕の方をギュッと掴んで、何も言わずに出て行ったが、その時のずっしりした暖かい感覚が忘れられない。当時の僕は若すぎて、たまに大邱に帰っても友達とばかり会い、父と素直に向き合うことが出来なかったことを今でも後悔している。

記者:家長としての責任感については?
Jun.K:父が亡くなったあと、病弱な母の代わりに、死亡届を出したり、父の会社を整理したりと、全てのことを僕がやった。周りに助けてくれる人もいなくて、その時に社会を学んだというか成長した気がする。

記者:韓国ソロとして見せたいものは?
Jun.K:韓国では僕の音楽は全く知られていない。2PMとして記憶している人が多いので、ソロとして出たら、反感があるかもしれないなどと考えたりもする。でも人がどう受け取ろうと僕がやりたい音楽を必ず成し遂げる。

記者:2PMの今後目指すものは?もうすぐ30代ですよね?
Jun.K:メンバ個人も含め、2PMがお見せできることはまだたくさんある。人々が考える2PMというと服を破ってる姿を思う人が多いかもしれないが、僕は発想の転換が必要だと思う。メンバーの個人活動も重要だが、2PMが終わることは僕達も望んでいない。

記者:パク・チニョンさんに一番感謝することは?
Jun.K:僕を選んでくれたこと。チニョン兄さんの姿を見ながら音楽的に学んだことがたくさんある。情熱がハンパなく、勉強家で、一生懸命生きている人。体調管理もしっかりしていて、体に悪いからといって、ステンレスは使わない。60代まで歌い続けると言っているが、もういい加減やめて、その分僕達にチャンスをくれてもいいと思う(笑)

記者:恋については?
Jun.K:彼女はいません。理想のタイプは昔から女優のキム・ミンジョンさん。
素直で、世間の人が僕の事を悪く言っても僕の味方になってくれる人がいい。

以上が、インタビューの要約。練習生時代の苦悩、舞台で味わった屈辱、父の死や母の病、そして父の遺言である改名まで。今まであまり語られて来なかった彼の言葉に胸を痛めたファンも多いことだろう。Jun. Kのステージを観た誰もがその魅力にハマってしまうという抜群のステージ力は、これまでの経験が全て原動力になっているに違いない。

日刊スポーツ「酔中トーク①」
日刊スポーツ「酔中トーク②」
日刊スポーツ「酔中トーク③」

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