大河ドラマ「おんな城主 直虎」第7話を2倍楽しむ!井伊の天敵“今川家”に大注目!実はすごい今川とは?予告動画-NHK

2017年02月18日12時00分ドラマ
ℂNHK

大河ドラマ「おんな城主 直虎」第7話を2倍楽しむために、今川家の歴史に大注目!井伊家と今川家、両家にとっての“遠江”のとらえ方の違いって!?今川家は戦国最強の“政治”一族だった?ドラマでは“敵役”な今川を知れば、ますますドラマが面白い!大河ドラマ「おんな城主 直虎」第7話は19日(日)夜8時からNHK総合、BSプレミアムでは夜6時から放送、予告動画は公式サイトで公開中。
【「おんな城主 直虎」を2倍楽しむ】では、次回予告と見どころ、各話の詳しいあらすじ、ドラマ視聴に役立つ豆知識などをまとめてご紹介している。

物語も大人パートへ突入。歴史的な事件も絡みだし、ますますおもしろくなるドラマ「女城主 直虎」。今回は、そんなドラマを2倍楽しむために、井伊家の天敵・今川家に大注目。
いかにして今川は現在の地位を築いたのか。その成り立ちを見ていきたい。

桶狭間出典:wikipedhia■戦国時代最大の過小評価!?
今川、と言うと最も有名なのが「桶狭間の戦い」であろう。
1560年、大群を率いた今川義元は、織田信長が治める尾張に進攻。実にこの時の今川の兵は4万。対して織田の兵は5000人にも満たず、勝負あったかと思われたのだが、これがまさかの織田の勝利。織田信長はこの勝利を契機にトップへと上り詰めていくのだ。

と、これだけ見ると、今川は、たった10分の1の兵にも負けた愚かな武将、という印象を持ってしまいがち。実際、現代の人気戦国武将ランキング、何てものの中でも今川家はランク外がほとんど。これだけ有名な武将でありながら、大河ドラマで主役に迎えられたこともないのだから、今川があまり好かれていない、ということは明白であろう。

しかし、織田信長は今川義元に勝利したことで一躍スターダムを駆け上がる。つまり、それだけ今川に勝ったというのは凄いことであり、今川家は間違いなく戦国時代を代表する名家だった。
では、なぜ今川家は過小評価されているのか。そこには、今川の脅威を恐れた“ある将軍”の存在、そして“戦国”という時代が関係していた。

■名家の生まれ
鎌倉初期に起きた幕府に対する反乱・和田合戦や、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して起こした承久の乱で、その平定に活躍したと言われる鎌倉時代の将軍・足利義氏。その義氏を祖父に持つ国氏が、父・吉良長氏の所領から三河国幡豆郡今川荘を分与され、その名を今川四郎と称したことから今川家の歴史は始まる。
その後、今川家は将軍にごくごく近い位置にある名家として力を付け、鎌倉幕府倒幕に大きな影響を及ぼした建武の新政(1333年ごろから)では、今川の者たちが戦いの功績を挙げ、丹後・但馬・因幡、駿河・遠江の守護を命じられることとなる。

■今川貞世の時代、遠江国への因縁
室町幕府でも、侍所の長官に命じられ幕府の中での地位を高めていく。さらに、この室町幕府で今川家、そして井伊家の運命を左右することとなる“ある出来事”が起きる。
それは、1370年ごろ、室町幕府3代将軍足利義満の頃の話。今川貞世が九州の統治を担当する九州探題の役割を命じられたのだ。
朝鮮などへの貿易口となる九州の平定を任されたことは大変な名誉であり、今川家にとってはその地位をさらに高めるためのビックチャンスであった。
もちろん今川貞世は奮起。多くの犠牲を払いながらも見事、九州を平定することに成功する。
しかし、南北朝統一を成し遂げたやり手の将軍・足利義満は今川家の名声が大きくなりすぎることを恐れ、貞世にあらぬ疑いをかけて九州探題を解任してしまう。その後、貞世に対して“遠江半国の守護”を任せたが、これは、九州平定を成し遂げた貞世に対してひどい仕打ちであったと言える。
貞世の子孫にしてみれば、九州探題の代わりに半ば押し付けられるように任された遠江の守護職には未練もなかったのか、その地位を斯波氏に譲ってしまうのだった。

そうした中で、戦国時代が始まった。

大河  出典:wikipedia■今川家、栄光の時期を支えた今川義元の誕生
今川家当主・氏親は、斯波氏に譲った遠江を再び今川のものとすることに燃え、見事に斯波氏から遠江を奪い返すことに成功。再び、遠江守護職となる。このとき、斯波方に付いた井伊家は、今川家に降伏の証として佐名を人質に出した、と言われている。

遠江、駿河を中心に土地を治めた今川は、先駆的に、基本的な法典である分国法「今川仮名目録」を示す。これは、東国では最古の分国法である。その結果、今川領の都市・駿府は文化的にも円熟した時代を迎え、和歌会、茶会なども活発に行われたという。

こうした円熟期に起きたのが「花倉の乱」と呼ばれるお家騒動。今川仮名目録を制定した氏親が死去、嫡子・氏輝が今川当主となり、甲斐の武田氏と和睦してますます力をつけるかと思われたのだが、甲斐侵攻計画を残して氏輝は急死、上位継承者であった弟の彦五郎も後を追うように亡くなったという。
このピンチに寿桂尼らは、出家していた義元を還俗させる。すると、この義元が大当たり。武田氏との和睦を再度成立させた。しかし、義元の家督継承に今川家の被官(官僚のようなもの)福島氏が猛反発。家督は玄広恵探にするべきだと花倉城で挙兵。これが「花倉の乱」である。
その結果は、武田氏からも支援を得た義元の勝利。今川、武田は甲駿同盟を結ぶほど強固な関係となった。

■ドラマ本編に続く“北条氏”との関係
この今川と武田の結びつきをよく思わなかったのが、関東の名家・北条氏。駿相同盟を結び、ともに武田氏に対抗していたはずの今川の裏切りに激怒し「河東の乱」を引き起こす。
このとき、北条氏は井伊氏などと手を結び、今川の勢力を分断。今川の領土の一部、河東を北条軍が占拠する。
しかし、義元はそのままで終わらず、河東を取り返すために上杉氏と結託。武田氏も今川方の援軍として参加したため、北条氏は撤退。何年間は不穏な空気が続いたものの、武田氏が仲介することで甲相駿三国同盟が成立。今川は遠江平定と三河侵攻、北条は北関東侵攻に専念することとなった…。

■戦国の時代には馴染まなかった今川の“政治力”
と、ここまでが、ドラマで描かれるまでの今川家の背景。
九州を平定したにも関わらず、全く評価されず、その後、同盟をうまく作り、分国法を先駆的に取り入れるなどしながら活動したものの、武力よりも政治色の強い今川家には、目を引くような“パッ”とした出来事はなかったと言えるだろう。
もしも“九州平定”の後、足利義満が今川貞世を高く評価していれば、政治力で今川が天下を取ることになって居たかも、しれない。

さて、今回は今川の歴史を振り返ってきたが、以前こちらで紹介した井伊家の歴史と重ね合わせてみると、井伊家にとっての井伊谷(遠江)のとらえ方と、今川家にとっての遠江のとらえ方が明らかに違うのがわかるのではないだろうか。
今川にとって一種“屈辱の地”であった遠江。対して井伊にとっては“誇りある地”であり続けた井伊谷。

来週は、そんな土地に対する思いの違いが引き起こす“検地”にまつわる物語。井伊にとって誇り高い地、清らかな地を“きっちりと調べ尽くせ”という今川に、井伊の人々はどんな決断を下すのか。来週も目が離せない展開が続きそうだ。

大河ドラマ「おんな城主 直虎」第7話は19日(日)夜8時からNHK総合、BSプレミアムでは夜6時から放送、予告動画は公式サイトで公開中。
【「おんな城主 直虎」を2倍楽しむ】では、次回予告と見どころ、各話の詳しいあらすじ、ドラマ視聴に役立つ豆知識などをまとめてご紹介している。

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