「オクニョ 運命の女(ひと):豆知識」文定大妃をのさばらせた聖君、朝鮮王朝第12代王・仁宗って?

2017年04月28日20時00分ドラマ
©MBC

イ・ビョンフン監督の最新作「オクニョ 運命の女(ひと)」(獄中花)第5話では、明の使臣が先代王(仁宗)の死の真相解明に乗り出す!そしてこれを阻止すべく文定大妃とユン・ウォニョンが動き出す!今回は渦中の“仁宗”について紹介しよう!ドラマの予告動画はHNKBSプレミアム番組公式サイトにて視聴できる。

■ドラマで描かれる第12代王・仁宗(在位1544-1545)
仁宗といえば、「宮廷女官チャングムの誓い」「女人天下」などの作品に悲劇の世子として描かれている。イ・ドンウク主演の「天命」は、世子(のちの仁宗)暗殺計画をモチーフに繰り広げられるスリリングな歴史ドラマ。
「オクニョ 運命の女(ひと)」でも、仁宗の継母である文定大妃が、仁宗を暗殺したのではないかと、明の使臣が疑っている。

当時の朝鮮は明に貢物を贈り(朝貢)、君臣関係(冊封体制)だった。つまり、朝鮮王朝にとって明は宗主国。睨まれると文定大妃どころか、王だって廃位に追い込まれかねない。だからこそ、文定やユン・ウォニョンは明の使臣が「先代王が毒殺された」と疑っていることに焦ったのだ。しかし、この焦りはそのまま文定一派の犯行を認めたことになる。
では、実在の仁宗はどんな生涯を送ったのだろうか?

■心優しき世子イ・ホ(1515年生-1545年没)
仁宗は1515年、中宗と2番目の妻・章敬王后(チャンギョンワンフ)・尹(ユン)氏の長男として生まれた。幼名は峼(山偏に告)(ホ、호)。字は天胤(チョンユン、てんいん、천윤)。生母の章敬王后が6日目で死亡し、文定王后(ムンジョンワンフ)・尹氏(ユンシ)の手で育てられた。
わずか3歳で文字が読めるほど聡明で、孝心に厚く、兄弟思いでもあった。5歳で世子に冊封され、24年間世子を務めた。
しかし、猜疑心が強く邪悪な文定は、世子を徹底的に虐め、火事で焼き殺そうとするなど何度も命を狙った。
朝鮮王朝実録によると、文定大妃に焼き殺されそうになった時にも、義理とはいえ、母にここまで嫌われたら死ぬのが道理だと、そのまま焼け死のうとしたと記されている。これを知った妻・嬪宮も、自分だけ助かるわけにはいかないと、二人で焼け死ぬ決心をした。そんな世子を助けたのは中宗の呼ぶ声だった。自分が死ぬことは父王にとっては親不孝と考えたのだ。犯人は明らかだったが、物静かで心優しい世子はこれを明らかにしなかった。
さらに、中宗が病に倒れた時には自ら毒味をし、終日天に中宗の回復を祈った。1544年、中宗が死去すると王位に就いたが、5か月もの間泣いて過ごした。

■邪悪な文定をのさばらせた聖君・仁宗
仁宗(李峼)が即位したのは29歳の時。即位後すぐに、己卯士禍(キミサファ)で被害に遭った士林勢力の名誉を回復し、善政を行おうとした。
即位してからも文定大妃の虐めは止まなかった。いつも目の敵にして、自分と慶源大君(後の明宗)をいつ殺すのかというほど。それでも仁宗は継母である文定を憎まず、むしろ自分の孝心が足りないと悩んだ。そればかりか、文定の望むように慶源大君に王位を譲るために自分の子をもうけなかったとも伝えられている。
結局、8ヶ月で病床に伏し、1545年、在位9か月(8か月と15日)という王朝史上もっとも短命でこの世を去った。30歳という若さだった。当時の人びとは、大変な孝行者で、寛大にして禁欲的な生活を送るまさに典型的なソンビ(士)の姿の仁宗を聖君と呼んだ。
多くのドラマで描かれた文定の仁宗暗殺事件が、事実かどうかわからないが、仁宗の聖君ぶりや文定の邪悪ぶりは歴史書や野史にも残っており、先人たちは、文定のあくどさがまかり通ったのは仁宗が優しすぎて善人すぎたためだったといっている。

(参考:『朝鮮王朝実録』「第12代 仁宗実録」、『韓国の歴史』他)

「オクニョ」では、そんな文定がパク・テスの前では女としての艶っぽさも見せ、テウォンは文定に対して並々ならない恨みを抱いているようでもある。今後の展開から目が離せない。

kandoratop【作品詳細】【「オクニョ」を2倍楽しむ】

NHKBSプレミアム|韓国ドラマ 「オクニョ 運命の女(ひと)」
 2017.04.02スタート 毎・日21:00-22:00



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