鹿児島城とは
藤井尚夫

鹿児島城は鶴丸城とも呼ばれ、島津家当主の城として慶長9年(1604)に完成した城である。
島津氏が鹿児島の地を本拠にしたのは南北朝期であったが、居城(居館)は、現在の鹿児島市街地内を数回移転している。島津氏の鹿児島での最初の拠点は、現市街地の北端の「東福寺城」であり、その次の拠点が、東福寺城の北西数百mにある山の「清水城」を本拠とした。

 

鹿児島
幕末維新期の鹿児島 考証・画/藤井尚夫


戦国中期になり、清水城の南1kmの「内城」に本拠を移した。関ヶ原合戦(慶長5年(1600))の後、近世大名の本城の必要から現在の位置に鹿児島城を造った。鹿児島城は、「内城」の南西1.5kmにある。城の東方から南東にかけての海岸との間は、下級武士の居住地や、商業地区が整備された。商業地区は海岸の近い場所である。商業地区は、鹿児島湾の水運を利用した物流が盛んであり、琉球を経由した対大陸貿易の拠点ともなっていた。

 

鹿児島城(鶴丸城)周辺地図
鹿児島城本丸は島津家の「表」の施設である書院を中心にした建物があった。二の丸は島津家の私的生活空間となっていた。
城山の頂上には、上山城の土塁が残る。

 

鹿児島城の西背後の山を「城山」と呼ぶ。城山は鹿児島城の一部ではあるが、山頂の遺構は、戦国初期まで使用されていた上山城の土塁の一部である。城山の北西に「夏陰城」と呼ばれる高地があるが、城の構えは無く、江戸期に鹿児島城の警備の侍が配置された場所である。

 

鹿児島城本丸石垣
北東の角(鬼門)を凹ませる「鬼門除け」の角落とし形状となっている。

 

鹿児島城本丸の塁壁は石垣で固められており、緻密な切込み剥石垣となっている。本丸の北東角の「鬼門除け」の角落としが目を引く。
現在本丸跡は、維新関連の資料を中心に展示される「鹿児島県歴史資料センター黎明館」となっている。


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