「王女の男」スタート前に系図と地図で朝鮮王朝を予習③ 太祖~5代王・文宗まで-予告動画公開中

2012年07月01日23時05分ドラマ
(C)KBS

いよいよ初回放送まで1週間に迫った「王女の男」!今回は、朝鮮王朝建国後からドラマの幕開けとなった第5代王・文宗の時代までを、年表や系図を使って紹介!ドラマ予告動画は番組サイトで視聴できる。これまでの「スタート前に朝鮮王朝を予習」をまだチェックされていない方は、【「王女の男」を2倍楽しむ】の「(2)時代背景①、②」を先にどうぞ。

1392年、8月。太祖には8人の王子がいたが、長男・芳雨(バンウ)はすでに38歳で不惑に近い年で、本人にその気がない(1393年に病死)。順当にいけば次男・芳果(バングァ)だが、太祖は寵愛する継妃の子で八男にあたる幼い息子・芳硯(バンソク)を世子(後継者)にしようとした。これに異を唱えたのが野心家の五男・李芳遠(イ・バンウォン)。
1398年8月25日、李芳遠は国家プランの立案者の鄭道伝や世子・芳硯を殺害。すぐに自分が王位に就くのは多くの反感を買うので、一旦、子供の居ない芳果を即位させた。これを「第一次王子の乱」という。
そして、今度は太祖の四男・芳幹(バンカン)の反乱を鎮圧し、自分が世子(本来は世弟とするべきだが…)となり第3代王・太宗となった。これが「第二次王子の乱」である。1400年、李芳遠33歳のこと。

世宗大王御真世宗大王御真(画像:wikipediaより)太宗は王権の強化を図り、それを阻むものは功臣であろうが親族であろうが関係なく排除した。こうして、王権は盤石となり国家財政は安定し、第4代王の世宗にバトンタッチされた。
世宗こそは、集賢殿(チピョンジョン)という研究機関を設け、ここに優秀な人材を集めてハングルを創製した人物。他にも、歴史書や測雨器や時計など多くの科学器具を開発した歴代もっとも優れた王といわれている。しかし、その功績も父・太宗の下地作りがあったからこそ。とはいえ、世宗の優秀さは兄弟の中でも群を抜いており、太宗は健康問題を抱えておりながらも、三男である世宗になんとか王位を継がせようとなかなか譲位しなかった。結局、長男の譲寧大君(ヤンニョンデグン)を奔放すぎる行動がもとで世子を廃位し、1418年世宗21歳で王位に就いた。ただし、即位後4年間は父・太宗が政治の実権を握り、太宗亡きあと世宗の親政が始まった。この世宗を描いたドラマに、ハン・ソッキュ、チャン・ヒョク、ソン・ジュンギのドラマ「根の深い木」がある。
世宗は32年もの長きに亘り国を治めたが、1437年になると世宗自体の健康問題もあり、国務の主要な業務を処理する6つの中央官庁(六曹)を、王が直接統括する「直啓制度」から、すべての政治と全役人を統括する最高官庁の領議政・右議政・左議政の三議政が六曹と協議し、その結果を国王に上奏する「議政府署事制方式」に変更し、王の国事の負担を軽くして権力を分散させた。そして長男の文宗を7歳で世子にし、文宗は即位前から摂政政治をして世宗の没後1450年に即位した。しかし、病気でたった2年で王位を幼い長男・端宗に譲った。

年表や系図朝鮮王朝系図さて、はじめに「朝鮮王朝は、国家理念を儒教にした」と紹介したが、儒教は平たく言えば「親や先生、年長者を敬い、行儀良くしなさい」という教え。(詳しくは「統一新羅・渤海」豆知識で解説)。つまり厳しい年功序列型でその序列は嫡男(正室が生んだ子)が絶対優位。ここで改めて朝鮮王朝系図を見てみよう。王名の後ろに前の王との関係を書いておいた。また、関係の前に“*”がついているものは庶子(嫡男でない子)。
朝鮮王朝が抱えたもっとも大きな憂鬱は、後継問題。この朝鮮系図で“長男”以外、または“*”のついているものは、正当な後継者が病死したか、前の王に子供がいなかったか、「第一次、二次王子の乱」や、「王女の男」のように「癸酉靖難(ケユジョンナン)」などのクーデターがあったとみていいだろう。

さあ、こうした背景をもってドラマ「王女の男」は、NHKBSプレミアムにて7月8日(日)夜9時から放送される。この後は、ドラマの流れに合わせて紹介するのでお楽しみに。

NHKBSプレミアム「王女の男」番組サイト
韓国KBS「王女の男」番組サイト
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