「イ・サン」序盤で描かれる、米櫃で無念の死を遂げる悲劇のお世継ぎ“思悼世子”って?
大ヒット韓国史劇「イ・サン」…第1~4話までは、主人公正祖の幼少期…ここでは、朝鮮王朝史に聖君として知られる第21代王の英祖が、わが子を米びつに閉じ込めて殺してしまったという史実が中心に描かれる!今回はドラマではあまり詳しく描かれていない悲劇の王子“思悼世子”について紹介しよう。
【「イ・サン」を2倍楽しむ】には、全話の詳しいあらすじやネタバレなしのあらすじ、時代背景などを紹介しているので参考にどうぞ。
ドラマでは冒頭話から主人公のサンの過酷な生涯を予感させる衝撃の事件が勃発する。思悼世子は、父・英祖や息子・サン(正祖)と同じく実在の人物。ドラマでは、「薯童謠-ソドンヨ」で百済の技術博士モンナス役を担当したイ・チャンフンが演じている。
父・英祖や息子・サンに比べ、思悼世子の記録はとても少ない。これは、無念の死を遂げた思悼世子の悪意に満ちた記録を全て消し去るために、サンが即位して「洗草」と言う儀式で記録を全て消し去ったため。これについては、ドラマ「イ・サン」第43話詳しく描かれる。気になる方は【「イ・サン」を2倍楽しむ】に全話の詳しいあらすじがあるのでチェックをどうぞ。また、そちらには、ネタバレなしのあらすじも用意しているので視聴にあわせてチェックをどうぞ。
思悼世子が生まれたのは、英祖11年(1735年)1月21日のこと。この時英祖はすでに42歳。7年前に長男の孝章世子(ヒョジョセジャ)を10歳で亡くしており、英祖は大喜びでこの子をソン(愃)と名付け後継者(世子)にした。英祖には他にも6人の妻から9人の子供を授かったが、そのうち7人が娘で、ソンは待望の息子の誕生だった。
こちらの党派の年表を開いて見よう。老論派と少論派は、元は西人派として同じ党派だったが、ドラマ「トンイ」にも登場した張禧嬪(チャンヒビン)を巡り対立するようになった。そのとき、英祖を擁立したのが老論派。そのため英祖は賢君と言われながらも、こと老論派についてはその勢力をそぐことはできなかった。これについては、「イ・サン」を2倍楽しむの「(3)英祖が恐れた党派、イ・サンが憎んだ党派とは」で詳しく解説している。
老論派はソンがいる限り、政治的立場が危うくなるため、ソンを陥れるべく謀反を企てる。英祖は、明晰な頭脳と知識で朝廷をリードし、民のことにまで心を砕く立派な指導者ではあったが、その性格は直情的で、ソンに対して次第に厳しく接するようになり、そんな父の厳しさからソンは、20歳を過ぎたころから性格も変わってきたとされている。
中には、罪のない女官を殺害するといった奇行を行ったとも記録されており、これに激怒した英祖は一層厳しい罰を与え、それに耐えかねたソンは気絶することもあった。その後ますますソンに関する悪意に満ちた投書や、流言飛語が飛び交い、英祖はついにソンと会うことも拒絶。ソンは自らの無実を訴え続けたが、英祖は決して許そうとはしなかった。こうした状態が20日以上も続き、ソンはとうとう乱心し、英祖のいる大殿に忍びこもうとしたとの噂までたってしまう。これではだめだと、英祖は決着をつけようと自らソンを呼び出すが、病気を理由に出てこず、堪忍袋の緒が切れた英祖がソンに自害を命じる。しかし大臣たちに止められ、ソンも慟哭して謝罪したものの、怒りが冷めない英祖はソンを米櫃(こめびつ)に閉じ込めた。
ソンは、米櫃の中で涙ながらに謝罪したが、英祖は許そうとせず、とうとう8日目に世子ソンは27歳の若さで生涯を閉じた。この時、英祖38年(1762年)5月21日のこと。
なお、英祖の後を継いで第22代国王・正祖となったイ・サンは、即位から13年後の1789年に、念願だった墓の移設(改葬)を行い、顕隆園と名付けた。
◇BS-TBS「イ・サン」番組公式サイト