「華政(ファジョン)」エピソード0:第1話の前に…父王・宣祖と光海君の間に何があったのか?

2022年11月01日21時00分ドラマ
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朝鮮時代は党争の時代といってもいい!朝鮮建国に貢献した功臣や外戚勢力に対抗した地方出身の知識集団からなる士林派が政界に乗り出し、分派を繰り返しドラマ「イ・サン」の正祖の代まで熾烈な党争を繰り広げた!「華政」は、そんな党争の始まりを舞台としている…ドラマの予告動画はDVD公式サイトで視聴できる。

「華政」の第1話は、前半の主人公である光海君が、王位継承者である世子でありながらも、父王・第14代王の宣祖に疎まれながら悶々とする日々を過ごす。
では、第1話の前に何があったのか、「華政」のエピソード0となる時代を駆け足でたどってみよう。



■なぜ、世子でありながらも光海君は父王に疎まれていたのか?
ファジョン
儒教を国家理念とする朝鮮王朝には「長子王位継承」、つまり原則、長男が王になるという厳格な決まりがあった。(詳しくは「悲劇の暴君・朝鮮王朝第15代 光海君ってどんな王?」で解説)
さらに、朝鮮は親明(中国)を掲げて建国された王朝なので、王や世子を決めるときに明の許可をもらわなければならなかった。ところが、光海君が庶子、つまり正妻の子でなく、しかも長男でないために16年間もの間、明からの許可がもらえなかったのだ。
誰よりも世子の資質があった光海君。好き好んで側室の次男に生まれたわけではないのに、全く酷い話だ。

■そもそもなぜ光海君は世子になれたのか?
14代王・宣祖の治世では西人派×東人派による党争と士禍(官僚たちへの粛清)に明け暮れていた。こちらの党派の年表で確認しよう。
その頃日本は豊臣秀吉が天下を握り、朝鮮半島や中国大陸にまで勢力を伸ばし始めた。だが、党争に明け暮れていた朝廷では、秀吉の朝鮮侵略に対する策が立ち遅れてしまい、1592年4月には豊臣方の地方大名たちを中心とした軍政が釜山に侵攻。わずか2か月足らずで朝鮮全土が掌握されてしまった。これが「壬辰倭乱」、学校で習った「文禄の役」だ。
国内が混乱する中、宣祖は仕方なく庶子で次男である光海君を世子にした。
「王の女」「王の顔」でも光海君の苦悩が描かれている。

■父王から疎まれたが、民からは超人気!
戦禍が激しくなると、宣祖は都を捨てて明(中国)に逃れ援軍を求めた。後を任されたのは世子・光海君。王が見捨てた朝鮮を救うために「義兵」と呼ばれた民兵が立ち上がった。彼らは光海君を崇拝し、李舜臣(イ・スンシン)の水軍と共に日本軍を悩ます存在にまでなった。この時、李舜臣が朝鮮初期に作られた亀船を改良して建造したのが亀甲船(コブクソン)で、日本軍との海戦で威力を発揮した。明国軍と日本軍との和議で戦乱は一旦終息。
しかし、1597年に秀吉の二度目の出兵。だが、1598年8月秀吉が死に日本軍は撤兵した。
これが「丁酉再乱」で日本では「慶長の役」と呼ぶ。李舜臣の活躍はドラマ「不滅の李舜臣(イ・スンシン)」で詳しく描かれている。また、「九家の書」ではこの亀甲船建造の資金を主人公のイ・スンギが隠す名シーンがある。
7年に及ぶ戦争で疲弊した朝鮮の復興政策を取ったのも光海君だった。宣祖は民を捨てた王と言われ、光海君は民からの篤い信望を得たことで、宣祖はますます光海君を疎ましく思ったのだ。

■宣祖が2人目の王妃を迎えた
イニョン仁穆王后宣祖は1567年に15歳で王位に就いた。王妃を含む8人の妻から男児14人と女児11人、計25人の子供がいたが、王妃・懿仁王后(ウィイワンフ)朴(パク)氏には子供が授からなかった。光海君と兄の・臨海君の生母は側室の恭嬪(コンビン金(キム)氏。1602年、懿仁王后が亡くなると、宣祖は周囲の反対を押し切って18歳の若い継室・仁穆王后(インモクワンフ)金(キム)氏を迎え、1606年には待望の正室筋の男子である永昌大君(ヨンチャンテグン)が生まれた。
このため朝廷では世子の座を巡って北人派が分派して、光海君を推す勢力(大北派)と永昌大君を推す勢力(小北派)とに別れて激しい党争が起きる。(党派の年表で確認)

「華政」の第1話はここから始まる。ドラマ前半は、時代劇初出演とは信じられないチャ・スンウォンの光海君ぶりを堪能しよう。

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