コミカル時代劇「哲仁王后 俺がクイーン!?」最終回考:歴史無視のハッピーエンド、実態は残念な結末!!
韓国ドラマ「哲仁王后 俺がクイーン!?」最終回では哲宗が無事生還し大団円を迎えたが、ドラマのその後、歴史に残る最後はどうだったのか?ここではそんなドラマのその後を解説しよう。予告動画はYoutubeにて視聴できる。
「哲仁王后 俺がクイーン!?」は、現代のオレ様男が時を超えて朝鮮時代の王妃の体に入り込んだことから巻き起こる騒動を描く“魂入れ替わり”のラブコメディ要素たっぷりの韓国時代劇。
架空の物語だが、モデルとなった王様と王妃様は朝鮮第25代・哲宗と妻、哲仁王后だ。それぞれ人物紹介は以下のページで紹介している。
・朝鮮王朝第25代王・哲宗とキム・ジョンヒョン紹介
・哲仁王妃とシン・ヘソン紹介
■最終回を振り返って
王妃ボンファン(シン・ヘソン)は王・哲宗(キム・ジョンヒョン)を捜しに山中へ。追いかけるビョンイン(ナ・イヌ)は、王妃の魂が別人格と知り、一時は殺害しようとしたが、王妃の中に愛したソヨンがまだいると気づき、王妃ボンファンを助けるために刺客に斬られて絶命した。生き延びた王妃ボンファンは哲宗と再会。2人は新王の即位式のために封鎖された城内に何とか潜入する。だが即位式会場に向かう途中、哲宗をかばって王妃が銃弾に倒れ、哲宗自身も銃創を負う。だが、気力を振り絞って哲宗は即位式を中止させた。
銃弾に倒れた王妃は胎児ともども奇跡的に命が助かった。だが、戻ったのはソヨンの魂、本物の王妃だった。これまでとは少々勝手は違うものの、哲宗と王妃は仲睦まじく幸せに暮らし、哲宗は次々と改革を行い、朝鮮を立て直していく。
一方、ボンファンの魂は無事現代に戻り、肉体も昏睡状態から覚めた。食材倉庫にある防犯カメラの映像をマスコミに流してハン室長の罪を暴いたボンファンは、勇気ある通報者となった。
■いいことなしの14年と6か月の在位
哲宗が王になったのは1849年。哲仁王后が王妃になったのは1851年。ドラマでは早い段階で懐妊しているが、実在の王妃は7年後の1858年に男児を出産。しかし間もなく死亡してしまう。側室たちが生んだ息子も4人いたが、なぜか全員早死にした。娘一人だけが成人まで生きたが、娘も結婚してわずか3か月で死去した。
また、ドラマでは哲宗の改革は次々と成功し、「カリスマ性で朝鮮を変えた革命の君主」として“哲宗”ではなく“哲祖※”として歴史に名を残したことになっている(※功を立てた方は祖、徳を積んだ方は宗をつけるのが原則。詳しくは最終回豆知識で)。
だが、実在の哲宗は無学で、政治は大王大妃・純元王后と安東金氏一族が行った。それでも即位3年からは親政を行い、汚職役人たちの懲罰や貧民救済対策などに誠意を尽くした。だが、相変わらず実権は安東金氏にあり、ドラマのような抵抗手段が見つけられず、いつしか国事もおろそかになって酒と宮女たちに溺れていく。そして権力者たちによる搾取で、民たちは疲弊し、1862年ごろから各地で民乱がおこり、ついに東学という信仰宗教が広まる。哲宗は最後まで故郷の江華島を懐かしみ、1863年、33歳という若さでこの世を去る。結局、哲宗自身は跡継ぎもドラマのような功績も残せず、在位14年と6か月は夢のように消えた。
■その後に続くドラマは?
哲宗死後、ドラマではチョ大妃として登場する神貞王后趙氏が、安東金氏一族に奪われた権力を取り戻そうと、思い通りになりそうな「ろくでなしの子供」を王に仕立てた。それが興宣君の幼い息子、第26代・高宗だった。
※このあたりを描いたドラマにパク・シフ主演の「風と雲と雨」がある。
その後、興宣君は王の父として実権を握り、お気に入りの嫁をもらったものの、王妃となった嫁は舅の言うことを聞かず、嫁舅の戦いで政事は滞り、1894年には東学農民革命(甲午農民戦争)が起こる。それがきっかけで日清戦争が勃発、勝利した日本の内政干渉が激しくなる。高宗は大国ロシアを頼り、国名を大韓帝国に改めて巻き返しを図るが、失敗。日露戦争で日本が勝利し、1910年日本に併合される。こうして518年続いた朝鮮王朝は幕を閉じた。
※このあたりを描いたドラマに、キム・ヒョンジュン主演「名家の娘ソヒ」、イ・ビョンホン主演の「ミスター・サンシャイン」、ユン・シユン×チョ・ジョンソク主演の「緑豆の花」などがある。(【ドラマの年表:朝鮮王朝】参照)。
★一度は良政を敷くために誠意を尽くした哲宗。「哲仁王后」は実現できなかった江華島から連れてこられた王様の夢を叶えてくれたドラマと言えよう。
◇Youtube「哲仁王后 俺がクイーン!?」予告動画
【作品詳細】【「哲仁王后」を2倍楽しむ】