【歴史コラム】「高麗契丹戦争」で高麗と戦った契丹(遼)ってどんな民族?(成立~終焉)

07月30日22時00分ドラマ
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中国北方民族の契丹(後に「遼」を建国)は10世紀末から11世紀にかけて、3度にわたって朝鮮半島の高麗に侵攻、戦争をしている。今回はその契丹の成立から終焉までを紹介する。

●高麗についてはこちらで紹介⇒高麗時代(成立~終焉まで紹介)



高麗と契丹との戦争を、高麗第8代王・顕宗と彼の政治の師でもあるカン・ガムチャン将軍を中心に、描いた超大型時代劇「「高麗契丹戦争」(原題)が、8月16日(金)からKNTVにて日本初放送されるので、視聴の前に参考にしてほしい。





<契丹について>

契丹(きったん)は、中国の北方地域を支配した遊牧民であり、特に遼(916年 - 1125年)の時代に繁栄した。以下に契丹とその歴史について詳しく説明しよう。
【朝鮮半島年表と日本・中国の時代】



●契丹の起源と初期の歴史

契丹はモンゴル高原の南部から中国北部にかけて広がる地域を支配した遊牧民。彼らの起源は明確ではないが、4世紀ごろから歴史の表舞台に現れ始めた。契丹は、強力な遊牧民連合を形成し、周辺の漢民族や他の遊牧民との交流や戦争を繰り返した。



●遼の建国

916年に耶律阿保機(やりつ あぼき)が遼(契丹)を建国し、926年に渤海を滅ぼした。その後、華北への進出を目指したが、同年に病没し、子の耶律尭骨(やりつ ぎょうこつ)がその意志を継いだ。同時期、中国では五代十国時代に後唐の節度使であった石敬瑭が反乱を起こし、936年に後晋を建国した。後晋は契丹の援軍を要請し、その見返りとして燕雲十六州を契丹に割譲し、絹布30万匹を贈ることを約束。こうして燕雲十六州は契丹の支配下に入った。これを足掛かりに遼は、華北全般への進出し、モンゴル高原に広がる広大な帝国を築いた。農耕民である漢民族と遊牧民である契丹人の文化を融合させた独特の国家体制を敷いた。
東アジア画像:『世界の歴史まっぷ』より
※燕雲十六州の割譲がなぜ、華北全般への進出の足掛かりになったのか?北方の遊民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代に万里の長城を築いた。ところが、燕雲十六州は万里の長城の南側、つまり万里の長城の中国側にあり、契丹は万里の長城を自由に超えて中国の華北に圧迫をかけたのだ。



●遼の統治と文化

遼の統治は、漢民族の官僚制度と契丹の遊牧民的な政治組織を融合させたものだった。耶律阿保機は、漢民族の官僚制度を取り入れ、中央集権的な統治を行ったが、一方で契丹の遊牧民的な風習や文化も維持した。遼の文化は、漢民族の文化と契丹の遊牧民文化が融合したもので、独特の芸術や建築様式が発展した。

●遼の衰退と滅亡

遼は、12世紀初頭に女真族(後の金朝)の攻撃を受けて衰退し、1125年に滅亡した。遼の滅亡後、契丹の一部は西遼(カラ・キタイ)を建国し、中央アジアに進出したが、やがてモンゴル帝国に吸収された。

●遼の遺産

遼は中国北部とモンゴル高原に広がる広大な領土を支配し、その文化や制度は後の中国や周辺地域に大きな影響を与えた。遼の時代に発展した契丹文字や契丹文化は、現在も研究の対象となっている。

契丹は遊牧民としての独自の文化を持ちながら、漢民族の影響を受けた独特の国家を築き上げ、中国北部の歴史に大きな足跡を残した。次回は「契丹と高麗の関係」について紹介する。

契丹が高麗と戦いを描いた歴史大作「高麗契丹戦争」(原題)が、KNTVで日本初放送されるこの機会をお見逃しなく。

■『高麗契丹戦争』(原題)
放送日時 8月16日(金) 日本初放送スタート
毎週(金)20:00~22:10 (2話連続) ほか 
出演者 キム・ドンジュン、チェ・スジョン、チ・スンヒョン、イ・ウォンジョン、ペク・ソンヒョン、イ・ミニョンほか
話数 全32話

kandoratop【作品詳細】【「高麗契丹戦争」を2倍楽しむ】