韓国ドラマ「ヘチ 王への道」気になる最終回のその後は?英祖、晩年に痛恨の汚点を残す
チョン・イル主演の韓国ドラマ「ヘチ 王座への道」最終回放送後ドラマのその後が気になるのでは?今回は、モデルとなった朝鮮王朝第21代王・英祖のドラマのその後を辿ってみたい!Youtubeにて予告動画が視聴できる。
「ヘチ 王座への道」は、18 世紀の陰謀渦巻く宮廷を舞台に、不遇の王子が朝鮮王朝第21代王(英祖)になるまでの過酷で長く険しい王座への道を描いた大作。【「ヘチ」を2倍楽しむ】では、各話の詳しいあらすじと見どころ、時代背景や実在の人物紹介、リリース情報などをまとめて紹介している。
■イ・グムの偉業は史実通り
これまでの韓国ドラマで描かれた英祖といえば、イ・スンジェが演じた「イ・サン」やハン・ソッキュの「秘密の扉」のように実の息子を米びつで死なせた厳格な王や名君として名高い22代王・正祖の祖父として描かれることが多かった。「トンイ」では賤しい身分から王(19代王・粛宗)の側室にまでなった淑嬪崔氏の息子として幼年期にチラリと紹介されたに過ぎなく、ヨ・ジングが若々しく英祖を演じた「テバク~運命の瞬間」でも二番手主役だったために、英祖の業績について詳しく描かれることはなかった。「ヘチ 王座への道」は、そんな英祖の若かりし頃にスポットを当てたのが新鮮だった。
しかし、その描き方が事実を基盤としているが、あまりにも英雄視したために彼を取り巻く支持派閥(党派)が歴史書に残るものとあまりにも違ったことで、「このキャラクターの性格は違う!」などと賛否両論が起きたりもしたが、英祖を演じたチョン・イルの神がかった演技は高く評価され、本作が彼の代表作となったのは間違いない。(詳しくは韓国での評判で解説)
だが、劇中描かれた即位後に行った党派に偏らない人材登用「蕩平策」や民の負担を軽減させる「均役法」などは実在した英祖が実際に行った偉業だし、最終回で「李麟佐の乱」で首謀者だけを処刑し、刑の執行命令を出すのに苦しんだように死刑執行に慎重を期し、何よりも民たちを常に思いやるという英祖の姿は歴史書にも刻まれている。正祖が旧習にとらわれずに新たな改革を次々と行えたのも、英祖がこうして基盤づくりをしてくれたおかげともいえる。
ただ、「ヘチ」ではほんの数年で次々と改革を成し遂げたように描かれているが、英祖の在位は52年と王朝最長。ドラマでは即位後1724年~1728年の5年間くらいを駆け足で紹介しているに過ぎない(チョン・イルが演じた延礽君は…)。
■最終回のその後も多岐にわたって活躍
「李麟佐の乱」で王権を強化し政局の安定を図った後、英祖は1730年頃には庶子とその子孫も官吏に登用できるようにし、国防政策のために鳥銃を制作させて海軍を増強した。また勉強家の一面もあった英祖は、自ら書籍も執筆し、一般民衆も読めるように広く頒布。こうした中、在野では一気に“実学”が広がった。実学とは、実際の暮しに役立つことを趣旨とした学問で、工学・医学・薬学・農学・法学・経済学・教育学等多岐にわたる学問だ。実学者といえば、丁若鏞(チョン・ヤギョン)に代表される正祖の時代に活躍した実学者が有名だったために正祖の専売特許のように思われているが、後に実学者と呼ばれる人々を後援し、文化的な面での発展にも寄与したのも英祖だ。英祖と正祖の時代を「朝鮮のルネッサンス期」と呼ばれるのもこうしたゆえんだ。
■晩年に痛恨の汚点
ところが、蕩平政治がしばらく続くと、各党派は再び政権争いをはじめ、最終回でミン・ジノンが案じた通りの展開となってしまった。そして起きたのが英祖史上最悪の事件、世子を米びつで餓死させた「荘献世子事件」だ。1694年生まれの英祖が70歳近くになった1762年の時。英祖は事件後、深く後悔し、信念として行ってきた蕩平政治の地盤をさらに固めるために、1772年には科挙として蕩平科を実施、さらに同じ党派に属した家同士の婚姻も禁止するなど政権独占を防ぐための施策を行い、王権を強固なものにした。
政治はますます安定し、社会全般にわたってさまざまな分野が発展した状態で、81歳の時に孫の正祖に代理聴政を命じ、翌年永眠したのだ。
こうしたドラマのその後を知ったうえで、もう一度「ヘチ」を視聴したり、英祖が登場するドラマなどを視聴すると、これまでとは違った見方ができるかもしれない。英祖の時代を背景にした作品は【ドラマの年表:朝鮮王朝】で確認できる。
◇作品公式サイト
【作品詳細】【「ヘチ」を2倍楽しむ】