映画『52ヘルツのクジラたち』レビュー:届かなかった声は、その後どう生きるのか

18時11分映画
(C)2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会

映画『52ヘルツのクジラたち』(2024年)は、「助けを求める声が届かなかった人間は、その後どう生きるのか」という問いに、徹底して向き合った作品だ。



本作は、町田そのこ著の同名小説が原作。2021年本屋大賞受賞作品だ。タイトルは、他の鯨からは聞き取れない高い周波数で鳴き、懸命に歌っても仲間に気が付かれないため「世界でもっとも孤独なクジラ」といわれている52ヘルツの鯨から取られている。

映画は、過去に家族からの虐待と搾取を経験した三島貴瑚(杉咲花)が、東京から大分の海辺の町へ移住するところから始まる。そこで声を出せなくなった虐待被害者の少年(桑名桃李)と出会い、一緒に暮らし始める過程で、互いの「届かない声」が交錯する。貴瑚を救い出してくれたアンさんこと安吾(志尊淳)や美晴(小野花梨)との過去も交え、ヤングケアラーやDVなどの社会問題を描きつつ、救いの光を探る。

物語は癒やしや救済を安易に提示せず、傷を負った人間がそれでも他者と関係を結び直すまでの、痛みを伴う過程を描き切っている。

主人公・貴瑚が背負っている過去は、家族からの暴力と支配、そして自分の存在そのものを否定され続けた時間だ。彼女は被害者でありながら、その事実を声に出すこともできず、ただ「生き延びる」ことだけを選んできた。その結果として彼女は、感情を表に出さず、誰にも期待せず、孤独の中で静かに呼吸する人間になっている。この静けさは強さではなく、防衛のために身につけた仮面である。

そんな貴瑚が出会う少年・ムシは、母親からの虐待によって声を失っている。ここで重要なのは、ムシが「喋れない存在」として描かれている点だ。彼は自分の被害を説明することも、助けを求めることもできない。ただ存在しているだけで、苦しみが見過ごされてきた子どもだ。貴瑚は彼の姿に、かつての自分を重ねる。声を上げられなかった自分、誰にも見つけてもらえなかった自分を、ムシの中に見ている。

ここで重要なのが、アンさんという存在である。アンさんは、貴瑚を虐待から救い出してくれた人物。アンさんもまた過去に深い傷を負いながらも、完全に壊れきらず、社会の中で居場所を見つけているように見える。しかしその穏やかさは、すべてを乗り越えた結果ではなく、痛みと折り合いをつけながら生きている姿に過ぎない。

アンさんは、貴瑚に対して過度に踏み込むことはしない。救おうともしないし、正しさを押しつけることもしない。ただ、そこに「理解しようとする大人」が存在している。この距離感こそが、映画の中で極めて重要な意味を持っている。アンさんは、貴瑚にとって初めて「声を上げなくても、存在を否定しない他者」であり、52ヘルツの声に耳を澄ませる側の象徴でもある。



物語中盤以降、貴瑚がムシを守ろうとする行動は、善意であると同時に非常に危うい。法や制度への不信、自分が動かなければ何も変わらないという焦燥が、彼女を追い詰めていく。その姿は正しくもあり、同時に危険でもある。対照的にアンさんは、「一人で背負わなくていい」という現実的な選択肢を示す存在として配置されている。貴瑚とアンさんの対比は、被害者がその後どんな道を選び得るのか、その分岐点を示している。

この映画は、「正しい選択」を簡単に提示しない。善意であっても、個人が抱え込むにはあまりにも重い現実があることを冷静に描いている。

クライマックスで描かれる、ムシが初めて声を発する場面は、この映画の象徴的な瞬間だ。だがそれは感動的な奇跡として演出されていない。叫びでも、明確な言葉でもない、不完全でかすれた声として提示される。この表現は、「声を取り戻すこと」がゴールではないという映画の姿勢を示している。重要なのは、完璧な言葉ではなく、「誰かが聴こうとしている状況」そのものだ。

ラストで描かれる貴瑚の表情もまた、完全な救済を示してはいない。彼女の傷は消えていないし、過去がなかったことになるわけでもない。それでも、彼女は初めて「自分の声が誰かに届くかもしれない世界」に足を踏み入れている。52ヘルツのクジラが、孤独な存在でありながらも鳴き続けるように、彼女もまた、不完全なまま生きていくことを選んだのだ。

この映画が残す最大の問いは、「あなたは誰かの52ヘルツの声を、聞き逃していないか」というものだ。声が小さいから、説明が下手だから、助けを求める形をしていないからという理由で、無視してしまった存在がいなかったか。『52ヘルツのクジラたち』は、その問いを観客に突きつけ、答えを委ねたまま終わる。その余白こそが、この作品の最も誠実で、最も残酷な魅力だ。

本作は1月28日からAmazon Prime Videoでプライム会員特典対象作品として配信中だ。会員なら無料で視聴できるこの機会をお見逃しなく。