「六龍が飛ぶ」時代背景:朝鮮王朝第2代王・定宗(李芳果)は哀しき傀儡王?予告動画

2017年05月25日12時28分ドラマ

DVDも好評発売中で、5月現在BSフジ、テレビ大阪などで放送中の「六龍が飛ぶ」もいよいよ終盤!父・太祖(チョン・ホジン扮)と五男バンウォン(ユ・アイン扮)が完全に決裂し、「第一次王子の乱」ののち1398年9月に太祖が王位を退き、次男・バングァ(ソ・ドンウォン扮)が第2代王・定宗(チョンジョ)として即位するが、今回は史実に残る李芳果、定宗がどんな王だったのかご紹介しよう!予告動画は作品公式サイトで公開されている。

【「六龍が飛ぶ」を2倍楽しむ】では、ドラマの時代背景やタイトルの意味、各話の詳しいあらすじと見どころ、キャストのインタビューなどをまとめてご紹介しているので参考にどうぞ。

■定宗(生1357.7.18-没1419.10.15)の生母は朝鮮最初の王后?
定宗は朝鮮王朝を建国した太祖(李成桂)と最初の正室・韓氏の間に生まれた次男。名は李芳果(イ・バングァ)、世子になる前は永安君。
ちなみに、韓氏は最初の妻だが太祖が朝鮮王朝を建国する前に亡くなっており、朝鮮王朝最初王后は、二人目の妻、康氏である。(第19話■豆知識 ①開京の妻って?参照)
太祖はこの康氏を深く愛していた。建国の功績から考えれば五男・芳遠(バンウォン)を後継者である世子にすべきだが、康氏から生まれたわずか10歳の幼い八男・(バンソク)を世子に冊封した。(太祖の愛妻ぶりは第44話■豆知識 ①愛妻家だった太祖参照)
しかし、これに憤慨した韓氏から生まれた芳遠をはじめとした息子たちが、1398年8月25日「第一次王子の乱」を起こして次男の芳果が世子に冊封された。順当にいけば長男・芳雨(バンウ)が世子になるところだが、そもそも芳雨は朝鮮建国の一連の太祖の行動に不満を漏らしていたために、太祖が芳雨の冊封を拒否した。一説にはすでに芳雨が死亡していたという説もある。

■定宗(在位:1398-1400)は傀儡王?
定宗(芳果)は、性格が穏やかで勇猛で知略がすぐれて、高麗末期、父に就いて多くの戦いに参加し多くの功績を立てた。しかし、「六龍が飛ぶ」でも描かれたように王位につく意志はまったくなかった。
「第一次王子の乱」では芳遠を補佐したが、一番の功労者である芳遠の譲歩と強い勧めで世子となった。一か月後に太祖が退位し王位に就いた。しかし、すでに権力は芳遠の手にあり、定宗は政務より太鼓を打ったり娯楽に溺れ、芳遠の操り人形、つまり傀儡王に過ぎなかった。だが、これは彼なりの保身策のようでそのおかげで定宗は芳遠と良好な兄弟関係を維持することができた。

■定宗が玉座を降りたのは妻の勧め?
1400年正月、太祖の四男・芳幹(バンガン)が私兵を動員して「第二次王子の乱」を起こし、芳遠が世子(※)になると王権が強化され、定宗は1400年11月ついに芳遠に王位を譲った。
定宗には1人の正妃と9人の後宮(側室)がいたが、正妃とは子に恵まれず、後宮との間に17男8女を得た。僅か2年の在位だが、一説には正妃である定安王后・金氏が定宗に玉座から下りるように勧めたとも伝わっている。金氏は長く王位につくといずれ芳遠に殺されると考えたのだ。芳遠を恐れていた定宗もこれに同意して玉座から下りた。定宗は、上王になってからは悠々自適に暮らし、62歳でこの世を去った。

※芳果を王位に就けたのは芳遠だが、芳遠は定宗を王と認めていない節がある。というのは、兄の後を継ぐ芳遠は本来“世弟”となるべきだが、自ら“世子”としている。これこそ、芳遠が自分はあくまでも太祖からの後継という意識があったからに他ならない。また、亡くなってからも陵=墓が一般王族同様、開城市板門郡にある点、“恭靖王”とよばれ1681年粛宗が初めて“定宗”という廟号が贈った点などから考慮し、芳果が朝鮮王朝中期ごろまで王扱いされていなかったとも考えられている。
芳遠については次回詳しくご紹介。

(参考:朝鮮王朝実録 【改訂版】「第2代 定宗実録」より)

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